銀色ふわり



有沢まみずの文体の特徴、多くの作家が伸ばし棒を「ー」とするところを「〜」とすることで、ライトノベルらしい柔らかさというか軽薄さというか、揺らぎを作っている事は一考に値するんじゃないだろうか。(一考しろよ)

物語の世界

偶然見かけた女の子が、普通は見かけることさえできない存在。ほう。
出生率の低下した世界。ほほう。
その世界に、レンズを通さなければ視認できない子が生まれる。また、見ることができないだけでなく、触れる事、声を聞くこともかなわない。ほほうほう。
逆にその子たちもまた、普通の人たちを視認・タッチ・listenできない。ほほーう! このあたりがつまびらかになるころにはすっかり引き込まれてた!


……でも、他人に触れられないんなら、生まれる前に母親の体も透過しちゃうんじゃね?(『頭の体操』愛読者的発想)
なんとゆーか、こういうのもSFって読んでいいのかな。わからんぽ。

心理学?

発達心理学認知心理学的な構造があったりして、大学でこの分野はそれなりに見聞を広めているのでなかなか面白く読めた。ナンセンスなのは分かるけど、本当はこうだろうな、と穿った読みも悪くない。

テーマというか

繰り返されていたのは「孤独」ということだったと思う。銀花はともあれ、主人公が銀花を見るような感じで、こちらも主人公を観測する、みたいな。

 何時しか僕もまた深い眠りに陥ってしまっていたようだ。朝まで延々、僕以外誰もいない教室でずっと見えない誰かを捜し続ける夢を見た。
 それは哀しかったけど。
 同時にどこか懐かしい夢だった。

(p117より)

 僕はなんでこの子といるのかな?
 この子はなんで僕のところにいるのかな?
 そんなことをとろとろと考えているうちに次第に眠りが訪れてきた。その日また夢を見た。誰も彼もが僕の前から消えていってしまう夢だった。
 クラスメートたちが、父が、そして母が。
 いなくなり、消えていき、僕は誰もいない世界にたった一人取り残されていた。哀しくて、ただ哀しくて鳴いていた。
 そんな夢だったと思う……。

(p147より)

で、主人公のアノ悪夢が重なって、主人公のたった一つの悲痛な「消えたい」って願いにつながっていくわけだけれど。
誰も彼もが自分のもとからいなくなっていって、自分という存在が希薄になっているんだよなー。

有沢まみず本領発揮

そんな全体と前提の中、戸荻との、というかによる疎通が物語の価値を一気に高めたと思う。このシーンがあっただけでもこの作品を手に取った意味はあった。前述の客観してる自分を客観する、ってとこにつながるけど、戸荻のことばでこの裏表に気付いた瞬間、すっごいカタルシスはわいてくる。遅すぎたけどナ! 更に続けての銀花とのもうね。この時の「見開き挿絵」、こういう演出はもっとあってもいいと思う。漫画も小説も演出は可能だってば。これが有沢まみず。え? ここでお子様厳禁シーンは要らないの入らないの?(言葉遊び)


で、読み終わってだけど。よいですよ。一巻だけ読んで「うーん」となった『ラッキーチャンス!』よりこっちが好きかな。いぬかみは別格。ただ、あら続編あるんだ。え、これ以上は無理なんじゃ、というのが正直なところ。こういう「おわり」も嫌いじゃないんだけどな。